
「うん、そのうちね」手作りケーキを冷蔵庫に入れたままにした俺が、すぐに食べなかったわけ
彼女に「うん、そのうちね」としか言えなかったのには、理由がありました。頭にあったのは、子どもの頃に一度だけもらい、いつまでも眺めていたケーキのことです。
誕生日を祝われた記憶がない
俺の実家は、家族で定食屋を営んでいました。誕生日は店がいちばん忙しい時期と重なり、両親は毎年厨房に立ちっぱなし。ケーキやプレゼントを囲んだ記憶は、ほとんどありません。それが当たり前だったので、誕生日はそういう日なのだと思っていました。
一度だけ、小学生のころの誕生日に、祖母がショートケーキを1つ買ってきてくれたことがあります。食べたらなくなるのがもったいなくて、冷蔵庫を開けては、いつまでも眺めていました。やっと食べようとした日には、クリームが傷んでいました。それでも、大切なものは最後にとっておく癖が抜けませんでした。
とっさに入れた冷蔵庫の奥
付き合って1か月の彼女に箱を渡されたのは、外で食事をしたあと、俺の部屋でした。
「誕生日おめでとう。ガトーショコラ、作ってみたの」
「え、俺に?」
誕生日に誰かから何かを受け取るのは、祖母のケーキ以来です。紺のリボンの結び目を眺めているうちに、浮かんできたのは、冷蔵庫の中にあった祖母のショートケーキでした。
「ありがとう。ちょっと冷やしとくね」
麦茶のポットを端に寄せて、箱を奥へ入れました。開けてしまえば、食べ終わったら何も残らない。とっさにそう考えていました。
「今、開けないの?」
「うん、あとでゆっくり」
彼女にそう聞かれ、理由を話そうとしても、子どもの頃の話から始めるのは大げさな気がして、口にしませんでした。そのあと2人で見た映画の途中、一度だけ冷蔵庫のほうを見たのは、箱がそこにあるのを確かめたかったからです。