
「汗臭いから、こっち来ないで」。そう言われた日から、夏の仕事鞄に入れる物が増えていきました
娘に言われたことを、大げさに受け取るつもりはありませんでした。それでも次の日から、替えのシャツを仕事鞄へ入れました。何年もたって、その中身を見た娘が、自分の鞄にも同じような物を入れていると知りました。
洗面所へ引き返した日
私は長く営業の仕事をしています。夏でも取引先を回る日は多く、夕方にはワイシャツが汗を吸っていることも珍しくありませんでした。娘が中学生だったころのことです。友人を家へ呼んでいると聞いていたのに、その日は仕事のことで頭がいっぱいで忘れていました。上着を腕にかけたまま廊下へ入ると、娘がこちらを見ました。「汗臭いから、こっち来ないで」友人の前でした。年頃なら、親の汗の匂いを恥ずかしいと思うこともあるだろうと分かっていました。腹を立てるほどのことではないとも思いました。ただ、何と返せばいいのか分からず、「ああ」とだけ言って洗面所へ戻りました。シャツを脱ぐと、自分でも汗の匂いがしました。言われても仕方がない部分はあったと思います。その日から、夏の帰宅の仕方だけが少し変わりました。娘に会う前に、まず浴室へ向かうようになりました。
仕事鞄に入れる物が増えていきました
翌日、替えのワイシャツを1枚、仕事鞄へ入れました。そのうち小さなタオルや替えのインナーも持つようになりました。汗拭きシートやデオドラントも加わりました。全部使っても、一日中暑い中を歩けば汗はかきます。途中で着替えても、帰るころにはまたシャツは汗を吸っています。それでも、何もしないよりはいいと思って続けました。娘に、「もう臭くないか」と聞いたことはありません。聞けば、あの日のことをわざわざ思い出させる気がしました。娘も匂いの話をしなくなりました。だから、対策が足りているのかどうかを確かめないまま、夏になるたび同じ物を鞄へ入れていました。やがて娘は就職して、家を出ました。帰宅すると先に浴室へ向かうのは、そのころにはもう癖になっていました。