
「もう潮時なんだよ」と笑った八百屋のおじさんが、最終日に手渡してくれた紙袋の中身
行列の先で受け取った紙袋に入っていたのは、野菜ではありませんでした。おじさんが「潮時」と言った本当の意味は、今もわかりません。それでも、最後にもらったものは私のベランダに残っています。
張り紙の前で聞いた1つの答え
「今月末をもって閉店いたします」。手書きの文字は、いつもの値札と同じ筆跡でした。この町に引っ越してきて3年、仕事帰りにこの店で野菜を買うのが習慣になっていました。おじさんは私の顔を覚えていて、頼まなくてもネギを新聞紙で巻いてくれます。
「どうして、急に」
レジ袋を受け取りながら聞くと、おじさんは笑って首の後ろをかきました。
「もう潮時なんだよ」
それだけでした。帰り道、冷蔵庫の中身を思い返しました。ここ半年、入っているのは駅前のスーパーで買った野菜のほうが多くなっていました。この店が閉まる理由の1つに、自分も入っているような気がしました。
最終日までの2週間、毎日通った理由
その日から、私は毎日店に寄るようになりました。買うものがなくても、小松菜を1束、じゃがいもを2個。同じことを考えた人は多かったようで、店先で顔を合わせる常連が増えていきました。
閉店まで1週間を切ったころ、おじさんが箱を運び終えるのを待って声をかけました。
「またどこかでお店やらないんですか」
「野菜はな、俺が作ってるわけじゃないから」
おじさんは箱を降ろしながら、そう答えました。
私はその言葉を、疲れの表れだと受け取りました。仕入れもままならない中で、1人で店を続けるのが重くなったのだろうと。それ以上は聞かず、小松菜を袋に入れてもらいました。